山口仙太郎の歴史を辿る。
山口株式会社は100年を超える長い歴史と共に歩んでまいりました。
その始まりは故 山口仙太郎のバイタリティに溢れた行動力の賜物と言っても過言ではありません。
その山口仙太郎の歩み、山口株式会社の始まりをご紹介いたします。
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- 明治40年11月29日
富山市平吹町において仙台「仙太郎」の長男「清一」として誕生
父・仙太郎、母ヒデの長男として生まれ、祖父 山口清蔵の名前から一字もらい「清一」とされた。物心ついたころより父の膝の上で家業の古着に馴染み、小さな手にソロバンを握ってきたことが、いつしか商売人への素地となっていった。
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- 大正14年
富山商業学校を卒業し家業を従事
貧しいながらも父が進学を認めてくれ、当時6倍の難関だった富山商業学校への進学を決意し、連夜暗い電灯の下で猛勉強をして無事入学をはたした。 学業のかたわら配達や集金など商売の実際を体験した。
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- 昭和7年
富山市西町にラシャ問屋「山口商店」を興す
学業卒業以来父の手伝いの範囲で家業に従事していたが、22歳のころに小さなときからの夢であった繊維卸商を実現すべく、メーカーからラシャ地を仕入れ、これを販売するラシャ問屋の道へと入った。富山市西町の旧大和前の密田銀行(北陸銀行の前身)跡地を入手する機会を得たので、当時ではめずらしい木造一部3階建の店を新築した。
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- 昭和11年
富山市東田地方に
ミシン工場を設ける昭和11年に富山市で開かれた「日満博覧会」を見て、いろいろな技術の進歩を目の当たりにして、今まで市内の個人の方々に依頼していた縫製を、自家工場で行うべく、富山市東田地方日赤病院裏にミシン30代程度のミシン工場を開設した
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- 昭和14年
父「仙太郎」死去
同年 その名「清一」を改め「仙太郎」襲名した。
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- 昭和19年
会社経営の第一号、北陸被服工業株式会社 設立
自宅前に設けたミシン工場の設備や技術が認められ、陸軍の軍服縫製を主として軍需工場に指定された。地元女学校からの学徒動員を受け、忙しい日々に個人経営の限界を感じ、昭和19年7月に北陸被服工業株式会社を設立。また、富山市岩瀬に木造船の建造修理を行う富山造船株式会社を設立し、いよいよ企業経営に乗り出した。
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- 昭和20年
富山空襲に被災
8月2日 B29によって富山に大空襲がかけられ、総てのものが灰に帰った。1人、2人の従業員とともに自宅前の工場から必死でミシンや資材を運び出し、疎開もさせていなかった家族を今一歩のところで戦災にまきこむところだった。終戦後、災害をまぬがれたこともあって、皆が裸一貫の姿で困っているから衣服をなんとかしてあげたいと決意し東奔西走した。思うようには行かないものの、従業員と一緒に頑張り、西田地方に工場を再建し以後八尾、岩瀬そして東田地方工場など次々に縫製工場を設け、かつての従業員が喜んで馳せ参じてくれた。
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- 昭和21年
中央映画興業株式会社 設立
終戦後1年も経つと富山では幾分民衆の心も落ち着いて来たので、人々が次に求めるものはなんであろうかと考え多くの知人からのアドバイスを得ながら検討を続けていた。そのとき昭和20年11月に「大和」の6階に小さな映画館が開かれ3日間市民に無料開放されたところ、連日おどろくべき賑わいを見せたので、戦争でうちひしがれた人々が笑顔をなくし楽しみを求めているのだと知り、市民に娯楽を与えられたらと考え中央映画興業株式会社を設立し洋画専門館として開館した。翌年には富山中央通りに富山映画会館を、さらには高岡に高岡セントラル劇場を建設した。
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- 昭和22年
東京・大阪へ進出
大阪淡路町に支店を置き、東京は日本橋人形町・練馬豊島園、両国横綱町に営業拠点を設けた。
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- 昭和24年
株式会社山口商店・富山経編興業株式会社 設立
東京や大阪に行き来する機会が増え、色々な情報が集まってくるようになり、政府の経編メリヤス工業復元3ヶ年計画により富山県にも編機57台の新設枠が認められた。今まで木綿の生地にさわって来た手に、絹のような肌ざわりの生地を持たされたときこれからの繊維はこのような素材が中心になっていくのではないかと直感し、大塚製のトリコット編機10台を導入する決心をした。そして、昭和24年に、このトリコット生産部門を富山経編興業株式会社として設立し、その卸部門を、株式会社山口商店とした。
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- 昭和26年
北陸被服工業株式会社・株式会社山口商店・
富山経編興行株式会社の3社を合併し、「山口株式会社」とする商人としての夢はどんどん広がって行き、企業もさらに幾多の優秀な人材や、熱心に働いてくれる多くの従業員のお陰で卸、工場、映画共々に飛躍的な成長をみせた。しかしすべてが順風満帆というわけには行かず、トリコットの編立はなかなか難しく、私はもとよりトリコットに携わる従業員の人々も大変苦しい思いをした。そこで、「三本の矢」の例えどおり、北陸被服工業(株)、(株)山口商店、富山経編興業(株)を1つにして総合力でさらなる飛躍を期すべく、昭和26年11月に山口株式会社としたのが始まりである。
私は「趣味といえば商売」といってははばからない人間であるので「儲かる儲からないかは後で、まずやってみることだ」といろいろ無理も通してきました、このために幾度も失敗や苦節を重ね、多くの人々や従業員にも心労をかけましたが、たびごとに皆さんの暖かいご理解とご努力、さらには多くお客さまのおかげでこれを乗り切ることが出来ました。数多くの良き知友にめぐまれ、数多くのすばらしい従業員とお客さまにめぐまれたことを本当に幸運に思っております。
山口 仙太郎